日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑳|水間君の鳥養人・川瀬舎人の設置・直丁が鳥養部に降格

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水間君の養鳥人

雄略10年 丙午ひのえのうま 466

九月四日 身狭村主靑むさのすぐり あおらが、呉が献上した二羽のがちょうを持って筑紫に到着しました。このがちょう水間君みぬまのきみの犬に噛み殺されました。 別本には、「このがちょうは筑紫の嶺縣主泥麻呂みねのあがたぬし ねまろの犬に噛み殺された」と伝わります 

水間君は 恐れて心配して、黙っておられず、おおとり十羽と養鳥人とりかひとらを献上して、罪の赦しを願い出ました。それで天皇はお許しになられました。

十月七日 水間君みぬまのきみが献上した養鳥人とりかひらを、軽村かるのむら磐余村いわれのむらの二か所に住まわせました。

 原 文

十年秋九月乙酉朔戊子 身狹村主靑等 將吳所獻二鵝 到於筑紫 是鵝 爲水間君犬所囓死 別本云「是鵝 爲筑紫嶺縣主泥麻呂犬所囓死 」由是 水間君 恐怖憂愁 不能自默 獻鴻十隻與養鳥人 請以贖罪 天皇許焉 冬十月乙卯朔辛酉 以水間君所獻養鳥人等 安置於輕村・磐余村二所

 ひとことメモ

天皇のお気に入りのあおが帰国

雄略8年の条の冒頭に、身狭村主靑むさのすぐり あお檜隈民使博徳ひのくまのたみのつかい はかとこを呉国に遣わしたとありますので、2年間呉国に滞在していたということになります。

派遣のとき、その目的は記されていませんでした。私は勝手に技術者の招聘、もしくは遣唐使のような留学ではないかと思ったのですが、連れて帰ってきたのは2羽のがちょう。お土産的なものだと考えると留学だった?留学だとしたら、短い期間で帰ってきましたね。

 

水間君みぬまのきみ嶺県主みねのあがたぬし

水間君みぬまのきみは、今の久留米市・柳川市あたりを支配していた豪族です。別本にある嶺県主みねのあがたぬしは佐賀県の神崎市から三根にかけてにあっただろうあがたです。

ですから、どちらも有明海に面した地域を支配していた豪族です。となれば、呉から帰ってきた身狭村主靑むさのすぐり あおは、有明海から九州に上陸したと想像できます。

呉は今の南京を首都としていましたから、博多ルートではなく有明海ルートをとったのでしょう。

そういう意味で、有明海沿岸部は非常に重要な場所だったんではないでしょうか。

養鳥人とりかひと

養鳥人とりかひととは、鳥養部の部民という意味でしょう。鳥養部は垂仁天皇の御代に定められたことになってます。

しゃべることができない息子が白鳥が飛ぶのを見て声を発したので、その白鳥を取りに行かせた。あっちこっち探して捕獲してきたその白鳥と遊んでいるうちに、息子はしゃべることができるようになった。よって鳥取部、鳥養部を定めた。  (記紀の要約)

 

白い鵜がいたから川瀬舎人?

雄略11年 丁未ひのとのひつじ 467

五月一日 近江国栗太郡おうみのくに くるもとのこおり

「白い谷上浜たなかみのはまにいます」

と報告しました。そこで詔して、川瀬舍人かわせのとねりが置かれました。

 原 文

十一年夏五月辛亥朔 近江國栗太郡言「白鸕鷀 居于谷上濱 」因詔 置川瀬舍人

 ひとことメモ

近江国栗太くるもと郡の谷上浜たなかみのはま

栗太くるもと郡は、今の滋賀県の、瀬田川より東側の大津市と草津市と栗東市を合わせた地域です。

谷上浜たなかみのはまは、大戸川と瀬田川の合流地点の大津市南郷・黒津のあたり、すなわち「南郷水産センター」あたりだろうといわれています。

ですから、谷上浜たなかみのはま栗太くるもと郡の西端ということになりますね。

川瀬舎人

想像するに、

「白い鵜がいた?これは珍しい。吉兆ではないか。よって名代を設けよ」

みたいなことで、その川の瀬に川瀬舎人を定めたのでしょう。

川瀬舎人は御名代でありつつも、漁業施設や鵜の管理を任された職業部の機能を併せ持っていたのではないかと思います。

そして、川瀬舎人が後世に田上網代となった、、、と想像します。

 

自称 呉国人

七月 百済国から逃げて帰化した人がいて、貴信きしんと名乗っていました。また、貴信は呉国人とも言っていました。磐余の呉の琴弾壃手屋形麻呂ことびきさかてのやかたまろ等は、この末裔です。

 原 文

秋七月 有從百濟國逃化來者 自稱名曰貴信 又稱貴信吳國人也 磐余吳琴彈壃手屋形麻呂等 是其後也

 ひとことメモ

特にないです。

 

直丁よほろ鳥養部とりかいべに降格

十月 鳥官とりのつかさの管理しているとりが、菟田人うだのひといぬに噛まれて死にました。天皇は目を剥いて怒り、顔にいれずみをさせ、鳥養部とりかいべにとしました。

このとき、信濃国の直丁よほろと武蔵国の直丁よほろとが宿直していて語り合い、

「ああ。我が国の鳥を積み重ねれば小さな墓ぐらいの高さにはなろう。朝夕食べたとしても、まだまだ余りある。天皇は、たった一羽の鳥のために人に黥をさせた。これは道理が通らない。悪行の王だ」

と言いました。

天皇はこれを聞かれ、鳥をみな集めて積み上げさせよ命じられたましたが、直丁らは集められませんでした。そこで詔して、鳥養部とりかひべとしました。

 原 文

冬十月 鳥官之禽 爲菟田人狗所囓死 天皇瞋 黥面而爲鳥養部 於是 信濃國直丁與武藏國直丁 侍宿 相謂曰「嗟乎 我國積鳥之高 同於小墓 旦暮而食 尚有其餘 今天皇 由一鳥之故而黥人面 太無道理 惡行之主也 」天皇聞而使聚積之 直丁等不能忽備 仍詔爲鳥養部

 ひとことメモ

百済から、自称、呉国の貴信という人が逃げてきた話は別として、雄略11年には、鳥に係る説話が3つ固められています。こうも固められると、本当にこの年に起こったこととは思えないです。

天皇の裁き方

天皇への献上の鳥がペットの犬に噛み殺される話が2つ。

一方は、きみかばねを持ち、そして大いに畏れ入って謝罪したため赦免されました。

もう一方は、姓のない、単なる人。顔に入れ墨を入れられて鳥養部にされてしまいました。そして、天皇の裁きを批判した二人の直丁も、鳥養部にされてしまいました。おそらくは、顔に入れ墨を入れられて。

この寛容と非情のコントラストは、何でしょうか。

水間君は、日本と呉国の接点である有明海沿岸を治めていた氏族です。天皇としては絶対に揉めたくない相手だったと思います。ですから、水間君を許して寛容さをアピールしつつ、自分の評価を上げた。

菟田人うだのひとや二人の直丁よほろは、殺そうが何しようが関係ないですから、思いのままに裁いたのでしょう。

アメとムチ、寛容と非情。これは独裁者に共通する一種の統治手法なんだろうと思います。

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