日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉔|住吉津と磯歯津路をつなぐ呉坂
呉国との交流
雄略14年 庚戌 470
正月十三日 身狭村主靑らが、呉国の使者とともに呉が献上した手末の才伎の漢織と呉織、そして衣縫の兄媛・弟媛をつれて、住吉津に泊まりました。
是月 呉からの客のために、磯歯津路に通じる道を造りました。名を呉坂といいます。
三月 臣や連に命じて、呉の使者を迎えさせ、呉人を檜隈野に住まわせたました。よって、この地を呉原といいます。また、衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とされました。
漢織と呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部と伊勢衣縫の先祖です。
原 文
十四年春正月丙寅朔戊寅 身狹村主靑等 共吳國使 將吳所獻手末才伎・漢織・吳織及衣縫兄媛・弟媛等 泊於住吉津 是月 爲吳客道通磯齒津路 名吳坂
三月 命臣連迎吳使 卽安置吳人於檜隈野 因名吳原 以衣縫兄媛奉大三輪神 以弟媛爲漢衣縫部也 漢織 吳織衣縫 是飛鳥衣縫部 伊勢衣縫之先也 |
ひとことメモ
住吉津
住吉津は、住吉大社の南を流れる細い川の河口にあった入り江の港です。淀川河口付近の難波津に比べて、大和へのアクセスが良いことから、表玄関としての機能を持つようになったと思われます。
後の遣隋使や遣唐使も、住吉津から出航していったといいます。
磯歯津路
磯歯津路は、古代の大阪を東西に走っていた古道です。そのルートははっきりとはわかってませんが、おそらくは、今の長居公園通りが磯歯津路だったのではないかと言われれいます。
大阪平野を最短ルートで横切って、八尾市あたりからは平野川か長瀬川に沿って大和国に入ったものと考えます。
呉原
高市郡明日香村檜前の東隣に栗原という地名があります。ここが檜隈野の呉原でしょう。呉原が訛って栗原になったということですね。
檜前は、応神天皇の御代に渡来した東漢氏が住む場所。今ここに、呉からの渡来人が住むことになりました。
このように、飛鳥は、先進技術を持った渡来人が集結するエリア、いわば古代日本のシリコンバレーのようなエリアだったのではないかと想像します。
そして、この渡来系氏族を上手に使って勢力を拡大していったのが、蘇我氏です。
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