日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉕|あれは大草香皇子の玉縵ではないか!
根使主の玉縵
四月一日 天皇は呉人をもてなそうと思われて、群臣に順番に
「饗応約は誰がよいか」
と尋ねられました。群臣は口をそろえて、
「根使主がよろしいかと」
と言いました。
そこで、天皇は、根使主に命じて饗応役とし、石上高抜原で、呉人を饗応されました。その時、密かに舎人を使いに出して、根使主の装飾を調べさせました。
舎人は、
「根使主がお持ちの玉縵はたいそう高貴で素晴らしいものでした。皆が、前に使者を迎えた時にも、同じものを着けていましたと申しておりました」
と申し上げました。
天皇は、ご自身で見てみたいと思われて、臣や連に命じて饗応の時と同じ服装で参内させました。
殿前にて引見のとき、皇后が天を仰いで泣きだし、悲しみに咽び泣きしました。
天皇は
「なぜ泣くのか」
と尋ねたところ、皇后は床から降りて、
「あの玉縵は、昔、私の兄の大草香皇子が、安康天皇の勅命を奉り、私を陛下に進めた時に、私の為に献上してくれたものです。だから、根使主を疑って、不覚にも涙をこぼして泣いてしまいました」
と申し上げました。
原 文
夏四月甲午朔 天皇欲設吳人 歷問群臣曰「其共食者 誰好乎 」群臣僉曰「根使主可 」天皇 卽命根使主爲共食者 遂於石上高拔原 饗吳人 時 密遣舍人 視察裝飾 舍人復命曰「根使主所著玉縵 大貴最好 又衆人云 前迎使時又亦著之 」
於是 天皇欲自見 命臣連裝如饗之時 引見殿前 皇后 仰天歔欷 啼泣傷哀 天皇問曰「何由泣耶 」皇后避床而對曰「此玉縵者 昔妾兄大草香皇子 奉穴穗天皇勅 進妾於陛下時 爲妾所獻之物也 故 致疑於根使主 不覺涕垂哀泣矣 」 |
ひとことメモ
安康天皇紀を参照頂くとよろしいのですが、、、
安康天皇が、仁徳天皇の弟である大草香皇子に使者を出して、その妹を弟の泊瀬皇子(雄略天皇)の妃として迎えたいと要請した。
大草香皇子は「この上なく有難いお話。お受けしたい。その契りとして玉鬘を天皇に献上する」と使いの者に渡した。 その使いの者はその玉鬘を盗むために、「お前の弟なんかに妹をやるわけないだろうと言ってました」とウソの報告をした。怒った天皇は大草香皇子を誅殺した。その使いはまんまと玉鬘を盗んだ。 |
その使いというのが、根使主だったのです。
根使主を誅殺
天皇はこれを聞いて激怒し、根使主を責めると、根使主は
「おっしゃるとおりです。私めの過ちです」
と答えたので、天皇は詔して、
「根使主は、今より後は、子々孫々に至るまで、群臣としてはならない」
と命じ、これを斬ろうとしましたが、根使主は逃亡し、日根に稲城を造って籠城しましたが、最後には皇軍に殺されました。
そして天皇は役人に命じて、子孫を二つに分け、その一を大草香部民として皇后に封じ、もう一を茅渟縣主にお与えになり、負嚢者とされました。
そしてすぐに、難波吉士日香香の子孫を探し出して、姓をお与えになり、大草香部吉士となりました。この日香香らの記事は安康天皇紀にあります。
事件後、小根使主 小根使主は根使主の子である が、夜に寝転んで、
「天皇の城は堅固でないが、我が父の城は堅固だ」
と言ったのを、天皇が人づてにお聞きになり、人を遣わして根使主の家を調べさせたところ、その言葉の通りだったので、これを捕らえて殺しました。根使主の子孫が坂本臣となったのは、これが始まりです。
原 文
天皇聞驚大怒 深責根使主 根使主對言「死罪々々 實臣之愆 」詔曰「根使主 自今以後 子々孫々八十聯綿 莫預群臣之例 」乃將欲斬之 根使主逃匿 至於日根造稻城而待戰 遂爲官軍見殺 天皇命有司 二分子孫 一分爲大草香部民以封皇后 一分賜茅渟縣主爲負嚢者
卽求難波吉士日香々子孫賜姓爲大草香部吉士 其日香々等語在穴穗天皇紀 事平之後 小根使主 小根使主 根使主子也 夜臥謂人曰「天皇城不堅 我父城堅 」天皇傳聞是語 使人見根使主宅 實如其言 故收殺之 根使主之後爲坂本臣 自是始焉 |
ひとことメモ
難波吉士日香香の子孫
日香香については、安康天皇紀を参照していただくのがいいのですが、、、
主人を殺された難波吉士日香香の父子3人は悲しみ嘆いて、「御存命の折に仕えた我ら、亡くなって従わずとは、なんで忠臣と言えようか!」と叫んで殉死した。 |
という出来事があったのです。その子孫を探し出して、取り立ててやったという次第。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません