日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉖|秦酒公「うづまさ」の姓を賜る。養蚕推奨で秦氏が全国へ。
秦のうずまさ
雄略15年 辛亥 471
秦民を臣連等に分散し、各々が自由に使って、秦造には任せていなかった。このため、秦造酒は気に病みながら、天皇に仕えていました。
天皇は秦酒公が気に入っておられたので、詔して秦民を集めて秦酒公にお与えになられました。
公は百八十種の勝(村主)の率いることとなり、庸調として絹や縑を献上し、朝庭にうず高く積み上げげました。これにより、禹豆麻佐の姓を与えられました。 ある話では、「禹豆母利麻佐」とは、すべてを積み上げた形のことをいう」とのこと。
原 文
十五年 秦民 分散臣連等 各隨欲駈使 勿委秦造 由是秦造酒 甚以爲憂而仕於天皇 天皇愛寵之 詔聚秦民 賜於秦酒公 公 仍領率百八十種勝 奉獻庸調絹縑 充積朝庭 因賜姓曰禹豆麻佐 一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也 |
ひとことメモ
秦氏
秦氏は、応神天皇の御代に渡来した弓月君が引き連れてきた一族。弓月君は、秦の始皇帝の末裔とされます。渡来規模は、なんと1万人規模だったとか。
渡来した当初は、大分県の宇佐あたりを本拠とし、その後は中央政権へと進出。畿内の各地に定着していきました。有名なところでは、京都の太秦、京都の深草、大阪府寝屋川市の太秦など。
秦氏は、土木、養蚕、機織などの技術に長けていました。仁徳天皇の御代に行われた河内の治水事業、すなわち、堀江の掘削や茨田堤の建設は、秦氏の技術者によるものとされます。
太秦
このように、各地に土着していった秦の一族は、その技術の高さから重宝がられたでしょう。ですから、次第に中央の臣や連たちにいいように使われ出し、秦造の管理から外れてしまいました。
この分散した秦の民を、再び集約したのが秦酒公。数万人の秦の民を手中に治めた秦酒公は、それはそれは儲かったでしょうな。
ということで、秦氏は巨大氏族に戻り、献上品をば、うずたかく積み上げることができたということです。
こんなことで、巨大な秦氏なので「太秦」。そしてこれを「うずまさ」と読ませるのです。
養蚕推奨
雄略16年 壬子 472
七月 詔して、桑に適した国や縣に桑の栽培を奨められました。また、秦民を分けて各地に住まわせて、庸調を献上させました。
十月 漢部を集めて、伴造者を定め、直の姓をお与えになられました。 ある書では、「漢使主らに直の姓をお与えになられた」と伝わります。
原 文
十六年秋七月詔 宜桑國縣殖桑 又散遷秦民 使獻庸調
冬十月詔 聚漢部 定其伴造者 賜姓曰直 一云「賜漢使主等 賜姓曰直 」 |
ひとことメモ
養蚕、絹織物
天皇は、秦の民を各地に移住させて桑の栽培をさせました。桑の栽培は、すなわち、養蚕。そして絹織物の増産につながります。
庸調を献上させるにとどまらず、中国のように上質な絹織物を輸出して、大陸との交易に役立てようとしたのではないかと思います。シルクロードに乗っかろうとしたのではないかと。。。
結局は中国製の品質には遠く及ばず、次第に衰退していったらしいですが。
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