日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉗|伊勢の朝日郎の反乱

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朝日郎の反乱

雄略18年 甲寅きのえのとら 474

八月十日 物部菟代宿禰もののべのうしろのすくね物部目連もののべのめのむらじを遣わして、伊勢の朝日郎あさけのいらつこを誅殺させることにしました。

朝日郎あさけのいらつこは、官軍が来ると聞いて、伊賀の青墓あおはかで待ち構えて迎え撃ちました。

射撃の腕前は自負していて、官軍に向かって

朝日郎あさけのいらつこの相手になる者はいるか!」

と言いました。

その射た矢は、二重のよろいをも貫いたので、皇軍は皆が懼れました。菟代宿禰うしろのすくねは、敢えて進擊せず、二日一夜、対峙したままでした。

そこで、物部目連もののべのめのむらじは、自ら大刀を持ち、筑紫つくしのきくの物部大斧手もののべのおおおのてに盾を持たせて、大声を上げさせて、軍中に突撃しました。

朝日郎あさけのいらつこが遥か遠くから射た矢が、大斧手おおおのての二重の甲を貫き、体にも一寸ほど突き刺さりました。それでも、大斧手おおおのては楯を持って物部目連もののべのめのむらじを覆い隠したので、目連めのむらじ朝日郎あさけのいらつこを捕らえて斬り殺すことができました。

 原 文

十八年秋八月己亥朔戊申 遣物部菟代宿禰・物部目連 以伐伊勢朝日郎 朝日郎 聞官軍至 卽逆戰於伊賀靑墓 自矜能射 謂官軍曰「朝日郎手 誰人可中也 」其所發箭 穿二重甲 官軍皆懼 菟代宿禰 不敢進擊 相持二日一夜 於是 物部目連 自執大刀 使筑紫聞物部大斧手 執楯叱於軍中 倶進 朝日郎 乃遙見而射穿大斧手楯二重甲 幷入身肉一寸 大斧手 以楯翳物部目連 目連卽獲朝日郎斬之

 ひとことメモ

伊勢の朝日郎あさけのいらつこ

伊勢国朝明郡あさけぐんにいた豪族のことだと思われます。朝明郡あさけぐんは、重県の北部で、四日市市から菰野町あたりです。

官軍が来ると知った朝日郎軍は、伊賀の青墓で待ち受けたとあります。この青墓は、伊賀市佐那具の御墓山古墳ではないかといわれています。

かつて、神功皇后&応神天皇に謀反を起こした忍熊皇子は、明石に亡き父(仲哀天皇)の山陵を造ることで人や船を集め、それでもって軍備を整えました。

今回、朝日郎が青墓で待ち受けたというのも、同じようなことなのかも知れません。

 

筑紫つくしのきくの物部大斧手もののべのおおおのて

筑紫つくしのきくの物部もののべは、先代旧事本紀の天孫降臨神話に登場します。記紀において天孫降臨といえば瓊瓊杵尊ににぎのみことですが、先代旧事本紀では、その兄である天火明命あめのほあかりのみことにも降臨神話があるのです。

天火明命の降臨の際には、32人の護衛が付きました。その中の二十五部の一人に「筑紫聞物部つくしのきくのもののべ」が見えます。

これら二十五部は北九州地方に住み着きます。筑紫聞物部つくしのきくのもののべは、きく企救きくで、豊前国企救きく郡に住み着きました。今の北九州市門司・小倉・八幡東あたりです。

 

恥じ入る菟代宿禰うしろのすくね

菟代宿禰うしろのすくねは、成し遂げることができなかったことを恥じ、七日間も服命しませんでした。天皇は侍臣に

菟代宿禰うしろのすくねは、なぜ服命しないのか」

と尋ねられました。讚岐田蟲別さぬきのたむしわけという者が

菟代宿禰うしろのすくねは怯えて、二日一夜の間、朝日郎あさけのいらつこを捕らえることができませんでした。その為、物部目連もののべのめのむらじが、筑紫つくしのきくの物部大斧手もののべのおおおのてを率いて、朝日郎あさけのいらつこを捕らえて斬りました」

と申し上げました。天皇はこれを聞かれてお怒りになり、菟代宿禰うしろのすくねの所有する猪名部いなべを取り上げて物部目連もののべのめのむらじに与えられました。

 原 文

由是 菟代宿禰 羞愧不克 七日不服命 天皇問侍臣曰「菟代宿禰 何不服命 」爰有讚岐田蟲別 進而奏曰「菟代宿禰怯也 二日一夜之間 不能擒執朝日郎 而物部目連 率筑紫聞物部大斧手 獲斬朝日郎矣 」天皇聞之怒 輙奪菟代宿禰所有猪名部 賜物部目連

 ひとことメモ

特にございません。

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