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贄土師部
雄略17年 癸丑 473
三月二日 詔して、土師連等に
「朝夕の膳に使う清浄な食器を作る者を献上せよ」
と命じられました。
土師連の祖の吾笥が、摂津国の来狭狭村(大阪府能勢町)、山背国の内村(京都市八幡市)と俯見村(京都市伏見区)・伊勢国の藤形村(三重県津市)及び丹波・但馬・因幡の私有の民部を献上しました。これを、贄土師といいます。
原 文
十七年春三月丁丑朔戊寅 詔土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者 」於是 土師連祖吾笥 仍進攝津國來狹々村・山背國內村俯見村・伊勢國藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部 名曰贄土師部 |
ひとことメモ
土師連
11代垂仁天皇の御代。当麻に住む当麻蹴速と相撲対決(最古の天覧相撲)をして勝ち、当麻の地を与えられた野見宿禰。
垂仁天皇の皇后の葬儀の際には、殉死の風習にかわる埴輪の制度を提案して、この功績により「土師臣」の姓が与えられました。
それ以降、代々にわたって、石室の製造、埴輪の製造、古墳の造営、葬儀儀式など、天皇の葬儀の一切を司ることになりました。
ちなみに、石室に使う岩は当麻地方に聳える二上山で採石されたそうです。そして野見宿禰という姓は石工が使うノミに関連すると言われています。
吾笥
土師連の祖とありますが、前述の通り、土師連の祖は野見宿禰です。
土師吾笥は、その野見宿禰の直系6世孫である土師小鳥の弟です。ですから、吾笥を、土師連の祖というのは変ですね。
想像するに、土師吾笥の子孫が贄土師部を統括する一族になったのでしょう。贄土師氏という氏があったかどうかわかりませんが、その贄土師氏?の祖という意味なのだろうと想像します。
それはともかくとして、土師氏は埴輪だけでなく、土器・陶器全般の技術を持っていたということですね。
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