日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉙|百済の滅亡と復興

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百済の滅亡

雄略19年 乙卯きのとのう 475

三月十三日 穴穂部あなほべを置かれました。

 

雄略20年 丙辰ひのえのたつ 476

冬 高麗王は大軍を発動して百済を滅ぼしました。少しの残兵がいて、倉の下に集まっていたが、兵糧は既に尽き、憂い泣いていました。

高麗の諸将が

「百済の心は普通ではありません。私はこれまでも百済を討つと、不覚にも自分を失います。いずれはまた、はびこる恐れがあります。今、徹底的に駆逐するようお願い申し上げます」

と王に進言したが、高麗王は

「だめだ。聞くところ、百済国は日本国の官家みやけであり、大昔からの由来がある。また百済王が日本に入って天皇に仕えていることは、四隣の知るところである」

と言って、追撃をやめさせました。

百済記では、「蓋歯王かふろおう乙卯年きのとのうのとしの冬に、こま(高句麗)の大軍が攻めてきて、大城を七日七夜攻撃した。王城が陥落し、尉禮国いれいこくを失った。国王・大后・王子らは皆、敵の手にかかり死んだ」と伝わります。

 原 文

十九年春三月丙寅朔戊寅 詔置穴穗部

廿年冬 高麗王 大發軍兵 伐盡百濟 爰有小許遺衆 聚居倉下 兵糧既盡 憂泣茲深 於是 高麗諸將 言於王曰「百濟 心許非常 臣毎見之 不覺自失 恐更蔓生 請遂除之 」王曰「不可矣 寡人聞 百濟國者爲日本國之官家 所由來遠久矣 又其王入仕天皇 四隣之所共識也 」遂止之 百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬 狛大軍來 攻大城七日七夜 王城降陷 遂失尉禮 國王及大后 王子等 皆沒敵手 」

 ひとことメモ

百済のバックには日本があるから、ここらへんでやめとこう。これ以上攻めると日本軍が来るぞ」というのが高麗王の考えだということですが、国王・大后・王子たちを皆殺しにした時点で、戦争は終わってますし、日本軍が来るとか来ないとかのレベルじゃないと思うんです。

単に、日本が強い国であることを示したかっただけの説話のような気がします。

 

百済の再興

雄略21年 丁巳ひのとのみ 477

三月 天皇は、百済が高麗に敗れたと聞いて、久麻那利コムナリ汶洲王もんすおうに与えられて、国の復興を助けました。時の人は、

「百済国はすでに滅び、倉下に集まっていたとは言えど、天皇のお蔭で、国は更生した」

と言いました。

汶洲王は蓋歯王がいろおうの母の弟である。

日本旧記にほんくきには、「久麻那利コムナリ末多王またおうに与えられた」と書かれていますが、これは間違いでしょう。久麻那利コムナリは任那国の下哆呼唎縣したこりのこほり別邑わかれのむらです

 原 文

廿一年春三月 天皇 聞百濟爲高麗所破 以久麻那利賜汶洲王 救興其國 時人皆云「百濟國 雖屬既亡 聚夏倉下 實頼於天皇 更造其國 」汶洲王 蓋鹵王母弟也 日本舊記云「以久麻那利 賜末多王 」蓋是誤也 久麻那利者 任那國下哆呼唎縣之別邑也

 ひとことメモ

日本旧記

現存する史書としての最古のものが、古事記と日本書紀なのですが、当記紀編纂以前にも史書はあったと考えられます。

古事記の序文には、帝紀ていき本辞ほんじ旧辞きゅうじ帝皇日継すめらみことのひつぎ先代旧辞せんだいくじ先紀せんきが、書名として上げられています。日本書紀の履中天皇紀には旧本ふるふみ。そして今、日本旧記にほんきゅうきが上げられました。

これらの史書は現存していませんが、存在していなかったとは言えません。きっとあったのでしょう。

その内容が、改竄されまっくて異本がたくさん出回っていたので、それを正すために古事記編纂の命令が下されたわけです。

だからこそ、古事記・日本書紀が完成したときには、過去の全ての史書が原本・異本問わず、破棄されたのでしょう。

 

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