日本書紀|第二十一代 雄略天皇③|市辺押磐皇子・御馬皇子も。政敵一掃作戦の総仕上げ

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市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこを狩りに誘って騙し討ち

十月一日 雄略天皇は、安康天皇がかつて市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこに国を伝えて、後の事を任せようとしたことを怨んでおられました。そこで、市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこに使いを出されて、

近江おうみ狭狭城山君韓帒ささきのやまのきみ からふくろ

『 近江の来田綿くたわた蛟屋野かやの(滋賀県蒲生郡日野町)には猪や鹿がたくさんいます。その頭の角は枯れ木の枝のようで、その揃った足は細い木のようで、吐き出す息は朝霧のようです 』

と言っている。冬の初めの穏やかな日に、野原を散策しながら 馬弓でもして少しは楽しもうよ」

と市辺押磐皇子を誘い出しました。市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこはこれに従い、狩りに出かけました。

そこで、雄略天皇は、馬にまたがり、弓を引き絞って、騙して

「 猪がいる 」

と言って、すぐに市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこを射殺されました。

市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこ帳内とねり佐伯部賣輪さへきべのうるわ  亦の名は仲手子なかちこと云うは、ご遺体を抱き、どうしていいかわからず、皇子の名前を叫びながら転がり、ご遺体の頭と足の間を行ったり来たりしていましたが、天皇はこれも殺しました。

 

御馬皇子みまのみこは待ち伏せて襲う

この月、御馬皇子みまのみこは、以前から味方と思ってい三輪君身狭みわのきみの みむさの所へ、自分の考えを伝えようと思って出掛けられました。

すると不意に道を遮る軍団に出会い、三輪の磐井いわいのそばで戦いとなりました。ほどなく捕らえられ、処刑されようとした時に、井戸を指差して、

「この水は庶民だけが飲むことが出来る 王者だけは飲むことができない」

のろいをかけられました。

 原 文

冬十月癸未朔 天皇 恨穴穗天皇曾欲以市邊押磐皇子傅國而遙付囑後事

乃使人於市邊押磐皇子 陽期狡獵 勸遊郊野曰「近江狹々城山君韓帒言『今 於近江來田綿蛟屋野 猪鹿多有 其戴角類枯樹末 其聚脚如弱木株 呼吸氣息似於朝霧 』願與皇子 孟冬作陰之月・寒風肅殺之晨 將逍遙於郊野 聊娯情以騁射 」市邊押磐皇子 乃隨馳獵 於是 大泊瀬天皇 彎弓驟馬而陽呼曰「猪有 」卽射殺市邊押磐皇子

皇子帳內佐伯部賣輪更名仲子 抱屍駭惋 不解所由 反側呼號 往還頭脚 天皇尚誅之

是月 御馬皇子 以曾善三輪君身狹故思欲遣慮而往 不意 道逢邀軍 於三輪磐井側逆戰 不久被捉 臨刑 指井而詛曰「此水者百姓唯得飲焉 王者獨不能飲矣 」

 ひとことメモ

市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこの地位

このように 市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこも殺されました。

市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこは、

安康天皇がかつて市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこに国を伝えて、後の事を任せようとしたことを怨んでおられました。

ということなので、安康天皇は市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこに継がせようと思っていたようです。急死したため立太子の礼は行ってませんが、このことは周知の事実だったことがわかります。

ですから、雄略天皇にとっては市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこが政敵の筆頭だったと思われます。

もしかしたら、市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこは立太子していたのかもしれないですよ。

 

御馬皇子みまのみこ

御馬皇子みまのみこは、履中天皇の第二皇子です。ですから、殺された市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこの弟となります。

周辺の皇子たちが立て続けに殺された今、さすがに御馬皇子みまのみこも「次は俺か、、、」と思ったことでしょう。ですから、三輪君身狭みわのきみの みむさの所へ行こうとしたのです。

 

三輪君身狭みわのきみの みむさ

三輪君は、崇神天皇の御代に大物主神の祟りを鎮める祭祀者として探し出された大田田根子を祖とする氏族で、それ以来、大物主神の祭祀は三輪氏が行ってきました。

磐井に呪詛をしました。「天皇はこの井戸の水は飲めない」と。

この真意は「天皇はこの地を支配することはできない」すなわち「三輪氏は雄略天皇に服従しない」ということなのかなと思います。

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