日本書紀|第二十一代 雄略天皇㉜|天皇崩御で、蝦夷が反乱。

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蝦夷の反乱

この時 征新羅将軍しらきをうつ いくさのきみ吉備臣尾代きびのおみ おしろは、吉備国の家に立ち寄っていました。率いていた五百人の蝦夷えみし等は、天皇の崩御を知って

「我国を牛耳っていた天皇が崩御されたぞ。この時を失してはならんぞ」

と相談して、集結して周辺の郡を侵略しました。

将軍の尾代おしろは家からやってきて蝦夷えみし娑婆水門さばのみなとで遭遇。合戦となって尾代おしろが矢を射ると、蝦夷等は飛んだり伏せたりして矢をかわしたので、はなかなか当てることができませんでした。

そこで尾代おしろは、空の弓弦を弾きました

海浜の上で、飛び伏せた二隊を射殺しました。二つのころくの矢を使い切ったので、船人を呼んで矢を探させましたが、船人は恐れて逃げてしまいました。

そこで、尾代は、弓を立て、弓弭ゆはずを持って詠んだ歌。

みちにあふや をしろのこ あめにこそ きこえずあらめ くにには きこえてな

道にあふや 尾代の子 天にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな

新羅への途中で戦っている尾代よ。このことは、朝廷には伝わらないだろうが、故郷の人々には伝わって欲しいなあ

詠い終わると、自ら数十人を斬り、さらに丹波国の浦掛水門うらかけのみなとでまで追いかけて、ことごとく殺しました。 ある書では、「追って浦掛まで行き、人を遣わして、ことごとく殺させた」と伝わります

 原 文

是時 征新羅將軍吉備臣尾代 行至吉備國過家 後所率五百蝦夷等聞天皇崩 乃相謂之曰「領制吾國天皇 既崩 時不可失也 」乃相聚結 侵冦傍郡 於是尾代 從家來 會蝦夷於娑婆水門 合戰而射 蝦夷等或踊或伏 能避脱箭 終不可射 是以 尾代 空彈弓弦 於海濱上 射死踊伏者二隊 二櫜之箭既盡 卽喚船人索箭 船人恐而自退 尾代 乃立弓執末而歌曰

瀰致儞阿賦耶 鳴之慮能古 阿母儞舉曾 枳舉曳儒阿羅毎 矩儞々播 枳舉曳底那

唱訖 自斬數人 更追至丹波國浦掛水門 盡逼殺之 一本云「追至浦掛 遣人盡殺之 」

 ひとことメモ

娑婆水門さばのみなと

娑婆水門さばのみなとは、今の広島県福山市佐波町あたりとされます。芦田川の右岸です。地図を見ると、結構内陸部になりますが、当時はこのあたりが海岸だったということですね。

浦掛水門うらかけのみなと

浦掛水門うらかけのみなとは、今の京都府京丹後市久美浜町浦明に治定されています。久美浜は、天橋立の小さいバージョン小天橋のある町で、浦明は小天橋駅があるところです。

瀬戸内海の娑婆水門さばのみなとから、日本海の浦掛水門うらかけのみなとまで、直線距離にして200km、海路だと750kmもあります。この距離を追いかけたとは思えませんので、雄略天皇崩御の一報によって反乱が各地で起こった、ということなんだろうと思います。

蝦夷

蝦夷は、日本武尊が東征したときに、常磐あたりから連れ帰った捕虜たちです。

はじめ伊勢の宮に収監しましたが、騒ぎを起こすので三輪山の麓に移したところ、今度は神山の木を勝手に伐採したりしたため、畿内から出して西国の各地に分散して収監しました。

体力があり戦が上手く、なおかつ呪術を使ったかもしれないという、かなりのクセモノのようです。

 

空の弓弦を弾きました。

空の弓弦ゆずるを弾くって何なのでしょう。

弓をつがえずにげんを鳴らす行為は、平安時代から行われていた鳴弦の儀めいげんのぎと同じです。出産、死などの穢れから発せられる魔気や邪気を祓うために行われていました。

 

日本書紀巻第十四 完

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