日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑥|狩場の食事で大激怒。宍戸部の設置。
吉野御馬瀬での狩りで激怒
十月三日 吉野宮に御幸されました。
同月六日 御馬瀬にお出ましになり、役人に命じて、思う存分狩りをされました。重なる峯を越え、広大な野を駆け巡り、まだ日も傾かない間に、7・8割の獲物をしとめ、獲るごとに大きな獲物が獲れました。鳥獣が尽きてしまうかと思うほどでした。
ようやく、林の中の泉の近くで休息をとられました。薮の沢を散歩し、行夫を休ませ、車馬を並べて、群臣に問いました。
「猟場の楽しみは、膳夫に鮮を作らせることだが、自分で作るというのはどうだ?」
群臣はすぐには答えることができませんでした。それで天皇は激怒され、御者の大津馬飼を斬り殺されました。
この日に、(天皇を乗せた)車駕は吉野宮から都に戻られました。国内に住む民は皆、天皇を恐れ震えました。
原 文
冬十月辛未朔癸酉 幸于吉野宮 丙子 幸御馬瀬 命虞人縱獵 凌重巘赴長莽 未及移影 獮什七八 毎獵大獲 鳥獸將盡 遂旋憩乎林泉 相羊乎藪澤 息行夫展車馬 問群臣曰「獵場之樂 使膳夫割鮮 何與自割 」群臣忽莫能對 於是天皇大怒 拔刀斬御者大津馬飼 是日車駕至自吉野宮 國內居民咸皆振怖 |
ひとことメモ
吉野で狩りをする
吉野という場所は、神武天皇東征の時にいち早く味方についた三部族、吉野首、吉野国栖、阿太養鸕らがいる場所です。この部族は、素朴にして純粋、そして屈強な体力の持ち主。皇軍の兵として活躍したのです。
ですから、吉野で狩りをする意味は、吉野の部族との関係強化と軍事演習でしょう。
仁徳天皇は淡路に狩りに出かけました。これも同じく、淡路の海人族との関係を強化しておきたかったからだと言われています。
鮮・宍膾
今、「ナマス」といえば、大根と人参の千切りを酢であえた、小鉢に入った漬物的な料理を思い浮かべますよね。
私の母親の作る「ナマス」には、大根と人参の千切りの他に、魚の薄切りを酢で締めたものが入ってました。ですから、私はナマスと言えば、酢で締めた魚のイメージなんです。
では、古代はというと、、、鮮・宍膾とは、生の肉を細かく刻んだ料理。語源は「なましし(生肉)」とも「なますき(生切)」ともいわれています。
膾に酢を用いるようになったのは後世のことで、これが私の母が作るナマスになったのでしょう。
皇太后の提案
この出来事をお聞きになられた皇太后と皇后も、大いに懼れました。そこで、倭の采女の日媛を呼んで酒を挙げてお迎えさせました。天皇は釆女の端麗で雅な顔立ちを見て、おだやかな顔をされ喜んで、
「お前の美しい笑顔を、朕が見たくないことがあろうか」
とおっしゃり、手をつないで後宮にお入りになられました。
その後、天皇は皇太后に、
「今日の遊猟でたくさんの獲物を獲たので、群臣と鮮を作って野饗をしようと思い、群臣に聞いてみたのだが、誰も答えなかった。だから怒ったのだ」
と語られました。
皇太后は天皇がこのようにお話になる心情を理解して、天皇を慰め申し上げて、
「群臣は、陛下が遊猟場に宍人部を置こうと思って群臣に質問された、ということがわからなかったのでしょう。群臣が黙ったのも当然ですし、答えるのも難しかったでしょう。今からでも遅くはございません。まずは私が時を戻しましょう。膳臣長野は上手に宍膾を作りますので、願わくばこの貢をお納めください」
とおっしゃいました。
原 文
由是 皇太后與皇后 聞之大懼 使倭采女日媛舉酒迎進 天皇 見采女面貌端麗形容温雅 乃和顏悅色曰「朕 豈不欲覩汝姸咲 」乃相携手 入於後宮
語皇太后曰「今日遊獵 大獲禽獸 欲與群臣割鮮野饗 歷問群臣 莫能有對 故朕嗔焉 」皇太后 知斯詔情 奉慰天皇曰「群臣 不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣 群臣嘿然理 且難對 今貢未晩 以我爲初 膳臣長野能作宍膾 願以此貢 」 |
ひとことメモ
采女の日媛
激怒している天皇を落ち着かせるために用意されたのが采女の日媛でした。容姿端麗であることはもちろんのこと、癒し系の女性だったのでしょう。しかし当の日媛の方は、命がけの奉仕だったと思いますよ。
しかし、皇太后と皇后も、機嫌を取る最善の策として採用したのが女性をあてがうことだったとは、天皇の女好きは超有名だったのでしょうな。
宍人部
皇太后のお話された内容が、私には理解しにくかったのですが、おそらくは、次のようなことでしょう。
「陛下は、『今までは膳部が宍膾を作ったが、宍膾を作る専門の品部を作ろうと思うがどうだ?』と言いたかったのですね。でもそれは群臣の頭脳では思いもつかない斬新なアイデアですから、陛下の質問の意味がわからなかったのも無理はないですよ。」
こんな風に言われたら、天皇も喜びますよね。
この膳部から独立した新設の品部が宍人部です。
宍人部の設置
天皇は跪礼し、申し出を受けられ、
「それはよいことです。身分の低い人が言うところの ”身分の高い人はお互いの心がわかる” とは、このことを言うのですね」
とおっしゃいました。皇太后は、天皇がお喜びになられたのをご覧になり、更に献上してあげようと思い、
「私の厨人の菟田御戸部と眞鋒田高天の二人も献上いたします。願わくば宍人部に加えてくださいませ」
と申し上げました。
これより後、大倭国造の吾子籠宿禰が、狭穂子鳥別を宍人部として献上し、臣・連・伴造・国造たちも、これに従って宍人部を献上しました。
原 文
天皇 跪禮而受曰「善哉 鄙人所云 貴相知心 此之謂也 」皇太后 觀天皇悅 歡喜盈懷 更欲貢人曰「我之厨人菟田御戸部・眞鋒田高天 以此二人 請將加貢爲宍人部 」
自茲以後 大倭國造吾子籠宿禰 貢狹穗子鳥別 爲宍人部 臣・連・伴造・國造 又隨續貢 |
ひとことメモ
跪礼
跪礼とは、両ひざをついて、うずくまって礼をする、今でいう土下座です。大悪天皇ともいわれた雄略天皇が、相手が母親とはいえ跪礼するとは信じがたいですが、、、
でもなんとなく、雄略天皇の孤独感が伝わってきませんか?
菟田御戸部・眞鋒田高天
皇太后の忍坂大中姫は、まさに忍坂にある忍坂宮(現:忍坂坐生根神社)に住まいしていました。天皇の宮からだと南へ徒歩30分ほどの距離でしょうか。
ここの料理番の菟田御戸部と眞鋒田高天を献上したということです。
菟田御戸部は、”宇陀の水戸部” で、水戸部は、渓流が盆地・平地に流れ出る水場で、狩猟の獲物や飼育した猪などを洗浄・解体する人々のことだったと思われます。
真鋒田高天という名は「目割田の鷹目」のことで、目割とは目尻や目のまわりに入れ墨するという意味です。
入れ墨といえば、猪養や烏養部・馬養部・阿曇部・久米部には顔に入れ墨を入れる習俗がありました。
ですから、真鋒田高天も宇陀の猪養だったと思われます。
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