日本書紀|第二十一代 雄略天皇⑨|蜻蛉野(あきつの)の由来

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蜻蛉野あきつの

八月十八日 吉野宮に御幸されました。

同月二十日 河上小野かはかみのおのに御幸されました。山役人に命じて獣を追い立てさせて、それを射ようとして待っておられたところ、アブ が飛んできて、天皇の肘を噛みました。するとそこへ、突然、蜻蛉あきつが飛んできて、その虻をくわえて飛び去りました。

天皇は、心のある蜻蛉あきつであると、大変喜ばれ、群臣に

「朕のために、蜻蛉あきつを讃える歌を詠め」

と仰せられたが、敢えて詠むものがいなかったので、天皇が詠まれた歌。

やまとの をむらのたけに ししふすと たれか このこと おほまへにまをす あるふみ 「おほまえにまをす」をいふを「おほきみにまをす」といふにかふ
おほきみは そこをきかして たままきの あごらにたたし あるふみ 「たたし」をいふを「いまし」というにかふ しつまきの あごらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくふらに あむかきつき そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたは おかむ あきづしまやまと あるふみ 「はふむしも」よりしもをいふを 「かくのごと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきづしまといふ」といふにかふ倭の 嗚武羅の嶽に 猪鹿伏すと 誰か このこと 大前に奏す あるふみでは、「大前に奏す」というところを「大君に奏す」というに変えている 大君は そこを聞かして 玉纏の 胡床に立たし あるふみ では、「立たし」というところを「坐し」というに変えている 倭文纏の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪待つと 我が立たたせば 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋ひ 這ふ虫も 大君に順ふ 汝が形は 置かむ 蜻蛉嶋倭 あるふみでは、「昆虫も」より以下をいうに「かくの如 名に負はむと そらみつ 倭国を 蜻蛉嶋といふ」というに変えている倭のおむらの嶽に猪鹿が居いると 誰が このことを大前に申し上げるのだろう 大君はそれをお聞きになられ、美しい玉を纏った胡床に立って 倭文織りを纏った胡床に立って、猪を待って私が立っていると、私の腕に虻が噛み付いいて その虻を蜻蛉あきつがすばやく捕まえた 昆虫までも天皇に順じている お前の名を記念に残そう 蜻蛉嶋倭あきづしまやまとという名に
と、このように蜻蛉あきつを讃えて、この地を蜻蛉野あきつのとしました。

 原 文

秋八月辛卯朔戊申 行幸吉野宮 庚戌 幸于河上小野 命虞人駈獸 欲躬射而待 虻疾飛來 噆天皇臂 於是 蜻蛉忽然飛來 囓虻將去 天皇嘉厥有心 詔群臣曰「爲朕 讚蜻蛉歌賦之 」群臣莫能敢賦者 天皇乃口號曰

「野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須 一本 以飫裒磨陛儞麼鳴須 易飫裒枳彌儞麻嗚須  飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺 一本 以陀々伺 易伊麻伺也  施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登 一本 以婆賦武志謀以下 易「舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」 

因讚蜻蛉 名此地爲蜻蛉野

 ひとことメモ

吉野の小野

吉野宮から吉野川の上流へ進むと大滝ダムがあります。そのダムの手前に合流する音無川をさらにさかのぼると、あきつ小野公園があり、蜻蛉滝があります。

おそらく、このあたりでの出来事かと思います。

蜻蛉

トンボです。

初代神武天皇紀でも蜻蛉(秋津)が登場しました。掖上丘から国見をしたとき、その地形が蜻蛉が交尾しているように見えるから、我国を秋津嶋と呼ぼうとおっしゃっいました。

国見という儀式でおっしゃったということは、五穀豊穣を祈ってのご発言と考えられます。

何故トンボが五穀豊穣?

その答えが、今回の虻を捕まえたトンボとして表現されています。そうです。トンボは稲に寄りつく害虫を捕まえて食べてくれる虫なのです。

雄略天皇は、その虫が「天皇に仕えてくれている」と発言されました。これは「皆の者、今ここで五穀豊穣が約束されたぞ!」と言っているに等しいのだと、私は思います。

ちなみに、香川県から出土した銅鐸には、「鹿や猪を弓矢で射る絵」とともに「トンボ」「カエル」「カメ」「水鳥」などが描かれていました。

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