日本書紀|日本武尊⑥|日本武尊は崩りて白鳥となる

2020年10月29日

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日本武尊の崩り(かむさり)

日本武尊は、能褒野(のぼの)に着く頃には、病がかなり重くなりました。捕虜として従わせていた蝦夷らを伊勢神宮に献上しました。

また、吉備武彦を遣わして、天皇に奏上させて、

「私は、天皇の命を受け、東夷を征伐いたしました。神のご加護をいただき、天皇のお力をお借りして、謀反の者どもは罪に服し、荒ぶる神は自然と従いました。それで、鎧を脱ぎ矛を収めて、やすらぎと楽しみの中に帰ることが出来ました。

今私の願いは、いつの日かいつの時か、このことを天皇に復命できることです。しかし、天命ここに至り、余命いくばくもなさそうです。一人広野に臥し、誰かに語ることもありません。

どうして我が身を惜しみましょうや。ただただ、お会いできなくなることが残念でなりません。」

とおっしゃられて、能褒野(のぼの)で崩(かむさ)りなされました。時に三十歳でした。

 

天皇は、これをお聞きになり、安らかに眠ることもできず、食事をしても味もわからず、昼夜を通して泣き通し、胸を打ち引き裂かれる思いに泣きました。

このように大層お嘆きになり、

「我が子の小碓王(をうすのみこ)は、熊襲が謀叛したとき、まだ総角にも及ばない年少だったのに、長い間の征伐に苦しみ、いつも近くにいて、朕のおよばない所を補ってくれた。

東の未開の国が反乱を起こした時は、それを討つ者がおらず、しかたなく賊の地に入らせた。その間、一日たりとも思い出さない日は無かった。朝夕に落ち着かず、とにもかくにもただだだ帰ってくる日を待ちわびていた。

何の禍か!何の罪なのか!思いもよらず、我が子を失ってしまうとは!これから先、いったい誰と天下を統治していけばよいのやら。」

とおっしゃいました。

そして、群卿に詔し百官に命じて、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に埋葬しました。

 原 文

逮于能褒野、而痛甚之。則以所俘蝦夷等、獻於神宮。因遣吉備武彥、奏之於天皇曰「臣受命天朝、遠征東夷、則被神恩・頼皇威而叛者伏罪・荒神自調。是以、卷甲戢戈、愷悌還之。冀曷日曷時、復命天朝。然、天命忽至、隙駟難停。是以、獨臥曠野、無誰語之。豈惜身亡、唯愁不面。」既而崩于能褒野、時年卅。

天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。

 ひとことメモ

能褒野陵

日本武尊が神去り埋葬されたという能褒野陵はどこなのか。候補地がいくつかありますが、現在、宮内庁は丁子塚に治定しています。

  • 丁子塚・・・三重県亀山市田村町にある前方後円墳。現在、治定されているのはここです。
  • 白鳥塚・・・三重県鈴鹿市上田町。三重県最大の帆立貝式古墳。丁字塚についで有力な候補地です。
  • 武備塚・・・三重県鈴鹿市長澤町。日本武尊の名代部「建部」に因むとされ、江戸中期は、ここが有力候補となっていたようです。
  • 双子塚・・・三重県鈴鹿市長澤町。大碓命・小碓命の双子に因むとされ、明治初期はここが有力でした。

素人の私は、情緒的に、双子塚が日本武尊の御陵で、武備塚が吉備武彦もしくは大伴武日の塚なのではないかと思ったりしてます。

 

白鳥となった日本武尊

その時、日本武尊は白鳥に化身し、御陵から出て、倭国を目指して飛んで行かれました。群臣たちが棺を開けてみると、清らかな衣服だけが抜け殻のように残り、遺骨はありませんでした。

そこで、使者を遣わして白鳥を追わせたところ、白鳥は倭の琴弾原(ことひきのはら)に停まりましたので、そこに御陵を造りました。

白鳥は更に飛んで河内に至り、奮市邑(ふるいちのむら)に留まったので、ここにもまた御陵を造りました。そこで、時の人は、この三つの御陵を名付けて白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼びました。

そして遂に、白鳥は天上へと高く翔け上り、むなしくも衣服と冠だけが葬られました。

ここに、日本武尊の功名を伝えようとして、武部(たけるべ)を定められました。

この年、天皇が即位されて四十三年でした。

 原 文

時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。

 ひとことメモ

白鳥陵

琴弾原の白鳥陵は、奈良県御所市冨田北浦にあります。御所市は葛城氏の本拠。神武東征までは高尾張邑という地名で、ここから東海へ進出した一族が尾張氏と名乗りました。

故郷に帰りたかったから白鳥に化身したんだと考えた時、その場所がここだとすると、

日本武尊と葛城氏・尾張氏には、何か深い関係があると考えるのが自然です、実は、日本武尊は景行天皇の皇子ではなく、尾張氏の人だったとか、あるいは葛城氏の人だったとか、、、

奮市(古市)の白鳥陵は、大阪府羽曳野市軽里にあります。近鉄南大阪線「古市駅」の駅から徒歩10分弱という、古墳にしては好アクセスです。

最後、ここから天に飛んでいったということは、ここはもっともっと重要な場所だったと考えられます。

白鳥陵の周囲には100を超える古墳が存在します。世界遺産に認定された「古市古墳群」です。その中心となるのが15代応神天皇の御陵とされる巨大古墳で、大和から河内に政治の中心が移った頃の天皇の古墳が多いのです。

もしかしたら、景行天皇までの皇統と、応神から始まる別の皇統を、万世一系とするべく挿入された架空の人物だったのかもなどと、想像を膨らませるのでした。。。

 

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