古事記|倭建命③|草薙の剣の由来と弟橘姫命の献身
倭建命の東征
このようにして西の国々を平定した倭建命に対して、天皇はすぐさま次の命令を出しました。
「東方十二道の従わないもの共を平定してきてくれ」
天皇は、比比羅木の八尋矛(ひひらぎのやひろぼこ)を倭建命に授け、吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を付けて東国へ派遣しました。
倭建命は、東国に向かう途中で伊勢大御神宮を参拝しました。
そこで、叔母の倭比賣命(やまとひめの命 )に会いました。
「天皇は私の死を望んでおられるのでしょうか。
西国の荒ぶる者どもを平定し、ご報告してから間もないのに、配下となる兵を下さらずに、今度は東国十二国を平定してこい、とおしゃいます。
これは、私に死んで欲しいと思っているとしか思えません。」
倭建命が泣きながら出て行こうとしたので、倭比賣命は草那藝劒と御囊を渡して、こう言いました。
「危機が差し迫ったら、この囊の口を開けなさい。」
さて、伊勢を出立した倭建命は、尾張国に到着しました。
ここで、尾張国造の祖の美夜受比賣(みやずひめ)の家に滞在しました。美夜受比賣と契りを結ぼうと思いましたが、都に戻るときに結婚する約束をするにとどめました。
倭建命は、尾張国を出立し、東へ東へと進みながら、従わない者たちを平和的に平定していきました。
さて、相武国に入ったときのことです。
そこの国造が
「この野に大沼があるのですが、その沼の神は道速振神(ちはやぶるかみ)なのです。」
と言って、倭建命を騙ましました。
そうとは知らず、倭建命は野に入りました。
すると国造は野に火を放ちます。
倭建命は騙されたことに気づき、姨の倭比賣命からもらった囊の口を開くと、なんと火打石が入っていました。
「おう。これは、よいものを。」
そこで、まず御刀で草を薙ぎ払い、火打で火を点け、向かってくる火を止めて、脱出することに成功しました。
そして、騙した国造らをことごとく切り殺し、その地を焼き払われました。そこで、その地を燒遣といいます。
原文
爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」
故、到尾張国、入坐尾張国造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東国、悉言向和平山河荒神及不伏人等。
故爾到相武国之時、其国造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其国造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其国造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。
簡単な解説
比比羅木の八尋矛(ひひらぎのやひろぼこ)
ヒイラギの葉の形をした大きな矛というような意味でしょう。ヒイラギには邪鬼を祓う力があると信じられてきました。よって魔よけの矛でしょうか。
今はあまりされませんが、昔は節分に、ヒイラギにイワシの頭を刺したものを、鬼よけ魔よけのために、玄関先に飾りましたよね。
美夜受比賣(みやずひめ)
『日本書紀』では宮簀媛。先代旧事本紀では邇邇芸命の兄とされる「天火明命」の子孫ですから、天照大御神の直系ですね。すばらしい血統ですね。
道速振神(ちはやぶるかみ)
「ちはやぶる」は、荒々しいという意味です。「荒ぶる」も同じ意味ですが、「ちはやぶる」には「先住民」という意味合いも含まれているとも言われています。
もしかしたら「縄文人」かもよ。縄文人は早く走る人(スネの長い人)と言われていましたから。
ですから、須佐之男命は「荒ぶる神」でしたが、「道速振神」(ちはやぶるかみ)ではないのです。
草那藝劒
もともとは、須佐之男命が八岐大蛇の体内から取り出した剣で、天孫ニニギが降臨する際に、天照大御神によって授けられた三種の神器の一つ。
そんな大切な剣を、天皇が「恐ろしいから、死んでほしい。。。」と願っている、ある意味「荒ぶる神」倭建命に渡した倭比賣命は、天皇から見れば反逆に等しいと思いますが。。。
一方で、、、実は倭建命が天皇だった、、、なんてことにだったのならば違和感なしですよね。
まあ、倭建命は実在せず、いろんな地方で戦ったヤマト王権の将軍の伝承を、一人の架空の人物にまとめて伝説の英雄の物語にしたというのが、一般的な解釈ですが、、、
弟橘比売命の献身
現代語
更に進まれて、走水海(はしりみづのうみ)を渡るときに、海峡の神が荒波を立てて船が思うように進まなくなり、海峡を渡ることができなくなりました。
この時、随行していた后の弟橘比賣命(おとたちばなひめの命)が
「私が、あなた様の代わりに海の中に入りましょう。あなた様は使命を全うされ、天皇にご報告なさいませ。」
と言い、菅疊(すがたたみ)を八重、皮疊(かはたたみ)を八重、絁疊(きぬだたみ)を八重を敷いて、その上に座り、海に入られました。
すると、みるみる波が穏やかになり、船は海峡を渡ることができたのです。
この時の后の歌は、
相模国の小野の 燃え盛る火の 中にあって わたくしの名をお呼びくださいました あなた様よ
七日後に、弟橘比賣命の櫛が浜辺に流れ着いたので、陵を作り、その櫛を納めました。
原文
自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是、其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。
簡単な解説
走水海
浦賀水道のことを指すようです。横須賀市に走水海岸という砂浜があります。その少し東にある岬「御所ヶ崎」から出発したと伝わります。
ちかくに「走水神社」があり、日本武尊と弟橘媛が祀られています。
弟橘比賣命
倭建命の妃です。饒速日尊の子孫で、誇り高き「穂積氏」の出身です。大和から随行してきたのでしょう。
倭建命が尾張で美夜受比賣とイチャイチャしていた間、何を思って待っていたのでしょうね。。。
櫛が流れ着いた場所
出発地点に流れ着いたとされています。ですから「御所ヶ崎」です。ちなみに、ここに倭建命の仮宮(御所)があったから「御所ケ崎」と名付けられたらしいです。
しかし、櫛を見つけたのは対岸に渡ってからですから、元の場所というのは考えにくいですよね。まあいいですけど。
御陵を造って櫛を納めたという伝承地が千葉県茂原市の「橘樹神社」です。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません