倭建命⑤|伊吹山の神と国偲び歌。そして最期の時。。。

スポンサーリンク

伊吹山の神の征伐

現代語

倭建命は、草那藝劒を美夜受比賣の家に置いて伊服岐能山之神(いふきのやまのかみ)を誅殺に行きました。

「この山の神は素手で退治してやろう。」

と言いながら、山に入っていくと、白い猪が出てきました。

牛のように大きな猪です。

倭建命は、、

「この白い猪はこの山の神の使いだな。ならば、今殺さなくても、山の神を退治して帰るときに殺せば十分だろうよ。」

言擧して、進んで行きました。

ところが、ひどい氷雨が降ってきて、おまけに道に迷ってしまい、伊吹山の神に会うことすらできません。

実は、さっきの白い猪は、神の使いなどではなく、伊吹山の神そのものだったのです。

そうです。言わなくてもいい事を言ってしまったので、その山の神の力で惑わされましたのです。

 

冷たい雨の中、山中を彷徨い歩いたために、ひどく消耗しましたが、やっとのことで山を下って、玉倉部(たまくらべ)の清泉に辿り着きました。

ここで休んでいるうちに、なんとか回復したようです。そこで、この清泉を居寤清泉(いさめのしみず)といいます。

原文

以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。

於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。  此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。  故還下坐之、到玉倉部之清泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其清泉、謂居寤清泉也。

簡単な解説

一生の不覚

この時、魔除けの神剣「草薙の剣」を尾張の美夜受比賣の家に置いていったのです。これは一生の不覚です。

さらに、不覚が続きます。

言挙げ

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる。

Wikipediaより引用

倭建命は、その慢心から「後で殺しても十分だ」と、言わなくてもいい事を言ってしまいました。だから、悪い結果がもたらされたのです。

草薙の剣を置いていったのも慢心からでしょう。いつの世も栄枯盛衰。慢心は命取りです。

これも一生の不覚ですね。

玉倉部(たまくらべ)の清泉

岐阜県不破郡関ケ原の、関ケ原鍾乳洞入口の前を流れる清水が玉倉部の清泉です。

 

倭建命の思国歌と崩御

現代語

しかし、一旦回復したかのように見えましたが、倭建命は病にかかってしまったようで、居寤清泉を発って當藝野(たぎの)に到着したころには、もう満足に歩くことすらままならない状態です。

「私の心はいつも空を飛ぶが如く自由だと思っていたが、今の私の足は満足に歩くこともできず、當藝當藝(たぎたぎ)しくなってしもうたわい。」

と呟きました。なので、この地を當藝(たぎ)といいます。

そこから少し進むと、もう杖を使わないと歩けないようになってしまいました。そこで、この地を杖衝坂(つゑつきさか)といいます。

尾津の先の一本松に到着したとき、昔、ここで食事をしたときに忘れていった刀が無くならずにそこにあったので、詠んだ歌は、

尾張の国に、まっすぐに向かい合っている、尾津の埼にある一松よ。
おまえが人であったら、太刀を差してやったのに、着物を着せてあげたのに。
のう、一松よ

そこから、三重村(みへのむら)に着いたとき、

「足が三重の勾りのように、とんでもなく疲れてしまった。。。」

と言いました。だから、この地を三重というのです。

そしていよいよ、その先の能煩野(のぼの)に着いた時に、故郷を思って詠んだ歌は、

大和は、国の中の国、
幾重にも重なり合っているような青い垣根
山々に囲まれている大和はすばらしい国だ。

そしてさらに、歌を詠まれました

命が無事であった者は、
平群の山の大きな橿の葉を、
簪として挿しなさい、お前たち。

この歌は思国歌(くにしのびのうた)です。

さらに、詠み続けます。

なつかしい、我が家の方から、雲が湧き立つ

これは片歌(かたうた)といいます。

この時方歌を詠んだあと、倭建命の病状が急変しました。しかし、更に渾身の力を振り絞るように歌を詠みました。

乙女の寝床に
私が置いてきた太刀
太刀よ、ああ

この歌を詠み終わられると同時に、糸が切れるように息を引き取りました。

 

そこで、早馬を使って天皇にご報告申し上げました。

原文

自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。自當下六字以音。」故號其地謂當藝也。自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、爾御歌曰、

袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁

自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思国以歌曰、

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯

又歌曰、

伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古

此歌者、思国歌也。又歌曰、

波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母

此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、

袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜

歌竟卽崩。爾貢上驛使。

簡単な解説

當藝野(たぎの)

養老の滝に向かう途中の、岐阜県養老郡養老町養老の大菩提寺に「日本武尊史跡 当芸野」という石碑が立っています。

杖衝坂(つゑつきさか)

三重県四日市市釆女町の丘陵に「杖衝坂」の史跡碑があります。

そこから坂を登ると、倭建命が足の血を洗ったという史跡跡に「御血塚社」と言う祠があります。

尾津の先の一松

三重県桑名市多度町御衣野に「尾津神社」がありまして、そこが尾津の埼だといわれいます。

地図を見ると、海から相当離れています。ここから尾張の国が見える?と思いますが、昔はここが海岸線だったのです。

伊勢湾が大きく北まで入り込んでいて、ここから対岸を望むと熱田台地が見えたはずです。

まさに、美夜受比賣の家がある場所ですね。

能煩野(のぼの)

三重県亀山市田村町、鈴鹿市との境目あたり。安楽川の畔に「能煩野墓」があります。そこで倭建命が亡くなったといわれています。

思国歌(くにしのびのうた)

この歌は、実は「国褒めの歌」だったそうです。

片歌

古代の歌の形式の一つで、5・7・7だけの歌のことをいいます。

スポンサーリンク

倭建命

Posted by リョウ