倭建命⑥|白鳥になった倭建命

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白鳥伝説

現代語

大和に居られました后たちと御子らは、みな能煩野(のぼの)に集まり、山陵を作りました。

そして、その御陵の周りの田圃を這い回って、嘆き悲しみ、歌を詠みました。

山陵のまわりにある田圃の稲の茎に、稲の茎に巻き付いているツルイモの蔓よ。

倭建命は大きな白鳥になって、大空に舞い上がり、浜に向かって飛んでいきました。

后と御子らは、小竹の切り株で足が傷ついても、痛みを忘れ、泣きながら後を追っていきました。この時に詠んだ歌は、

小篠が原を行き悩む、空を飛んでは行けないし、歩いていくしかないのかな

海に入って、大変な思いをしながら追って行く時に詠んだ歌は、

海に入ると行き悩む、大河原の浮き草のように、海川をさまよっています

その白鳥が磯に留まったときに詠んだ歌は

浜千鳥、浜辺を行かず、磯またぐ

是この四つの歌は、葬儀のときに詠まれた歌ですから、今でも天皇の御葬儀(大葬の儀)のときに歌われています。

さて白鳥は、そこから、河内国の志幾に降り立ったので、その地にも御陵を作り、鎭坐していただきました。

この御陵を白鳥御陵(しらとりのみささぎ)といいます。

しかし、そこから更に大空高く飛び立たれて行きました。

 

倭建命が国を平定するために出向いたときに、久米直(くめのあたひ)の祖の七拳脛(ななつかはぎ)が、いつも膳夫としてお仕えしていたことを、ここに付け加えておきましょう。

原文

於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田自那下三字以音而、哭爲歌曰、

那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良

於是化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行。智字以音。爾其后及御子等、於其小竹之苅杙、雖足䠊破、忘其痛以哭追。此時歌曰、

阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那

又入其海鹽而、那豆美此三字以音行時歌曰、

宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波伊佐用布

又飛、居其礒之時歌曰、

波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布

是四歌者、皆歌其御葬也。故至今其歌者、歌天皇之大御葬也。故自其国飛翔行、留河內国之志幾、故於其地作御陵鎭坐也、卽號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。凡此倭建命、平国廻行之時、久米直之祖・名七拳脛、恒爲膳夫、以從仕奉也。

簡単な解説

大葬の儀

現在の大葬の儀の中の葬場殿の儀」(そうじょうでんのぎ)で、大御葬歌(おおみはふりのうた)が歌われます。

昭和天皇のときも歌われたそうですよ。

白鳥御陵(しらとりのみささぎ)

大阪府羽曳野市軽里にあります。世界委遺産に登録された「古市古墳群」を構成する古墳のひとつです。

近くには、息子の仲哀天皇陵や孫の応神天皇陵などがあります。

七拳脛(ななつかはぎ)

わざわざ、最後の最後に七拳脛(ななつかはぎ)について書き記すということは、何らかのメッセージであることは間違いないと思います。

七拳脛は、大久米命の9世孫で、その大久米命の祖父は天津久米命です。

 

天津久米命は、邇邇芸命の降臨の際に、弓矢剣を持って護衛した神。

大久米命は、神武天皇の東征に付き従い、圧倒的な強さで東征を支えた、いわば神武軍の将軍。海人族で隼人とも。つまり、海幸彦を連想させるのです。

そして、壬申の乱のとき天武天皇軍の先陣を務めて大活躍したのが、七拳脛の13世孫の久米御園です。

つながりますね。

邇邇芸命の天孫降臨、神武の東征、倭建命の東征、天武の壬申の乱。そのすべてに天津久米命の系統が関わっているのです。

これは、これらの神話は、壬申の乱をモデルにした創作だということを示唆しているのでは?と思ったりします。

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倭建命

Posted by リョウ