古事記|31代用明天皇
用明天皇の宮・后妃皇子女
現代語
沼名倉太玉敷命の弟の橘豐日命(たちばなのとよひのみこと)が池邊宮(いけのへのみや)に都を定めて天下を治められたのは3年でした。
天皇が稻目宿禰大臣(いなめのすくねのおほおみ)の娘の意富藝多志比賣(おほぎたしひめ)を娶って生まれた御子は、
- 多米王(ためのみこ)
の一柱でした。
庶妹の間人穴太部王(はしひとのあなほべのひめみ)を娶って生まれた御子は、
- 上宮之厩戸豐聰耳命(うえのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
- 久米王(くめのみこ)
- 植栗王(ゑくりのみこ)
- 茨田王(まむたのみこ)
の四柱でした。
當麻の倉首比呂(くらのおびとひろ)の娘の飯女之子(いひのこ)を娶って生まれた御子は、
- 當麻王(たぎまのみこ)
- 須加志呂古郎女(すがしろこのいらつめ)
の二柱でした。
天皇は丁未年四月十五日に崩御されました。御陵は石寸掖上(いはれのわきのかみ)にありましたが、後に科長中陵(しながのなかのみささぎ)に改葬申し上げました。
原文
弟 橘豐日命 坐池邊宮 治天下參歲 此天皇 娶稻目宿禰大臣之女 意富藝多志比賣 生御子 多米王 一柱 又娶庶妹間人穴太部王 生御子 上宮之厩戸豐聰耳命 次久米王 次植栗王 次茨田王 四柱 又娶當麻之倉首比呂之女 飯女之子 生御子 當麻王 次妹須加志呂古郎女 此天皇 丁未年四月十五日崩 御陵在石寸掖上 後遷科長中陵也
簡単な解説
池邊宮(いけのへのみや)
場所は特定されていないようですが、桜井市の吉備池周辺か、同じく桜井市東池尻の古池周辺といわれています。
稻目宿禰大臣(いなめのすくねのおほおみ)
蘇我稲目です。蘇我馬子の父親ですね。
上宮之厩戸豐聰耳命(うえのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
聖徳太子です。お名前が凄いことになっています。
河内磯長原陵
大阪府南河内郡太子町の「王陵の谷」こと磯長谷にある「春日向山古墳」が、用明天皇の御陵「磯長原陵」に治定されています。
方墳です。
古墳時代が終わりかけのこの頃から、天皇の陵として方墳が採用されることが多くなってきます。
さて、ここに改葬される前の、石寸掖上(いはれのわきのかみ)にあったとされる「磐余池上陵」の場所は特定されていません。
桜井市の池之内あたりだと思われます。少なくとも河内国ではないでしょうね。
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