21代雄略天皇①|長谷朝倉宮と后妃皇子女

スポンサーリンク

雄略天皇の宮・后妃皇子女

現代語

大長谷若建命(おほはつせわかかけるのみこと)は、長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみ)を都として、天下を治められました。

天皇は大日下王(おほくさかのみこ)の妹の若日下部王(わかくさかべのひめみこ)を娶られましたが、子供は出来ませんでした。

都夫良意富美(つぶらのおほみ)の娘の韓比賣(からひめ)を娶って生まれた御子は、

  • 白髮命(しらかのみこと)
  • 若帶比賣命(わかたらしのひめみこ)

の二人でした。

白髮太子の御名代として白髮部(しらかべ)を定め、長谷部舍人(はつべのとねり)と河瀬舍人(かはせのとねり)を定められました。

この御世に、呉人が大勢渡来して来たので、呉人を呉原(くれはら)に定住させました。もちろん、呉人を住まわせたので呉原というのです。

原文

大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。天皇、娶大日下王之妹・若日下部王。无子。又娶都夫良意富美之女・韓比賣、生御子、白髮命、次妹若帶比賣命。二柱。故爲白髮太子之御名代、定白髮部、又定長谷部舍人、又定河瀬舍人也。此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也。

簡単な解説

長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみ)

奈良県桜井市黒崎にある白山比咩神社が伝承地となっていますが、そこから西へ700mほどの桜井市脇本の脇本遺跡で、5世紀後半の掘立柱穴が発見され、こいつが朝倉宮跡の有力候補となっているようです。

若日下部王

20代安康天皇が誅殺した大日下王の妹

この誅殺は、そもそも安康天皇が弟の大長谷王(雄略天皇)と若日下部王を婚約させようとしたことが発端の事件でした。

我々の感覚では理解しがたいですね。

韓比賣

こちらは、自らが殺した都夫良意富美(葛城円)の娘です。

日本書紀によると、葛城円が命乞いのために娘を差し上げると提案したところ、娘を奪い取ってから殺したといいます。

雄略天皇の残虐非道さが伺えます。

といいつつも、支配する側が支配される側の娘を娶ることで部族間の融和を図るという古代の習わしに則っているといわれれば、そうですねというしかないのですが。

呉原(くれはら)

日本書紀の雄略天皇14年の段に、

「臣、連に命じて呉国からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉原と名付けた。」

という記述があります。

桧隈とは、現在の奈良県高市郡明日香村大字檜前、栗原、御園あたりを指すらしいです。

栗原(くりはら)なんて、まさに呉原(くれはら)。

ここらには、渡来系氏族の檜隈寺や、呉津彦神社などがあり、呉人が居住していたような香りがしますね。

 

大后の若日下部王

現代語

以前、大后が日下に居られた時、天皇は生駒山を日下の直越道を通って河内までお出ましになられました。

途中の生駒山から国を見てみると、屋根に堅魚木(かつおぎ)を上げて作った家がありました。

「あの堅魚木を上げた家は誰の家か!」

と尋ねられた。

「志幾の大縣主(しきのおほあがたぬし)の家でございます」

との答えを聞くと、

「こ奴め!自分の家を天皇の宮と同じように建てやがって!」

とおっしゃられ、その家を焼き払おうとされました。

大縣主は恐れおののき、平伏して申し上げるに、

「私めは、そうとは思わざるままに間違って建ててしまい、誠に恐れ多いことを致しました。お詫びのしるしに贈り物を献上致しまする。」

と許しを請い、白い犬に布を繋いで鈴を付け、身内の腰佩(こしはき)という者にその犬の繩を引かせて差し上げました。

この為、家を焼き払うことをやめて、そのまま若日下部王の家に出向かれました。

そして貰った犬を贈って

「この犬は、今日ここに来る途中で得た珍しい犬だ。妻問いの品としよう。」

とsっやいました。

すると若日下部王は天皇に、

「日を背にしてまでも直々にお越しいただき、大変畏れ多いことでございます。今度は私が宮に参上し、お仕え致します。」

と申し上げました。

天皇が宮にお帰りになられる時、日下山の坂上で詠まれた歌は、

日下のこっちの山、
平群のあちこちの山、
その谷間に茂り栄える
葉広の大きな樫の木
根元に竹が生えて
枝先に竹が重なっている
そんな絡まる竹のように
共に寝ることはしてないが

そのうちきっと共に寝よう
愛しき妻よ。

この歌を使いに託して、日下にお返しになられました。

原文

初大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河內。爾登山上望國內者、有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云「其上堅魚作舍者誰家。」答白「志幾之大縣主家。」爾天皇詔者「奴乎、己家似天皇之御舍而造。」卽遣人令燒其家之時、其大縣主懼畏、稽首白「奴有者、隨奴不覺而過作甚畏。故、獻能美之御幣物。能美二字以音。」布縶白犬、著鈴而、己族名謂腰佩人、令取犬繩以獻上。

故、令止其著火。卽幸行其若日下部王之許、賜入其犬、令詔「是物者、今日得道之奇物。故、都摩杼比此四字以音之物。」云而賜入也。於是、若日下部王、令奏天皇「背日幸行之事、甚恐。故、己直參上而仕奉。」是以、還上坐於宮之時、行立其山之坂上歌曰、

久佐加辨能 許知能夜麻登 多多美許母 幣具理能夜麻能 許知碁知能 夜麻能賀比爾 多知邪加由流 波毘呂久麻加斯 母登爾波 伊久美陀氣淤斐 須惠幣爾波 多斯美陀氣淤斐 伊久美陀氣 伊久美泥受 多斯美陀氣 多斯爾波韋泥受 能知母久美泥牟 曾能淤母比豆麻 阿波禮

卽令持此歌而返使也。

簡単な解説

あの残虐非道?な雄略天皇のことですから、志紀大県主はさぞや肝を冷やしたことでしょう。

ちょうどその日は妻問いに出かける途中だったことに加え、うまい具合に、珍しい白い犬を贈ったことが、功を奏したわけですね。命拾いをしました。

日下(くさか)

河内国の日下というと、神武天皇の東征のときにナガスネヒコとの戦いが繰り広げられた場所です。

現在の東大阪市日下町を中心とした生駒山の裾野一帯をさすのでしょう。

直越道(ただごえみち)

大和国と河内国を結ぶ古代の道は複数ありました。そんな中で、この道は生駒山を越える最短ルートではあるものの最も険しいルートでもあったと言われています。

現在の直越道は、生駒山の北を通って山を越え、宝山寺方面へ降りていくルートのようですよ。

スポンサーリンク