母の苦悩
現代語
神武天皇が崩御されたあと、九州で生まれた庶兄(まませ)の當藝志美美命(タギシミミ)がやってきました。
そして、あろうことか亡くなられた父の皇后であった伊須氣余理比賣(イスケヨリヒメ)を娶り、神武天皇の子である兄弟三人を殺そうとしました。
三兄弟の母である伊須氣余理比賣は悩み苦しんで、歌で子供たちにその企てを知らせようとしました。

雲が沸き立ち、
畝傍山木の葉ざわめき
風吹こうとす
さらに、続けて

昼は雲あり
夕方は去った
風吹こうとし
木の葉ざわめく
原文
故、天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須氣余理比賣之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須氣余理比賣患苦而、以歌令知其御子等、歌曰、
佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
又歌曰、
宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
簡単な解説
最終的に饒速日尊から統治権を奪うお話の神武東征は、天武の壬申の乱をモデルとしているのではないかと考えた時、
この皇后のお話は、自分の子に皇位を継がせるための行動という点で、持統天皇をモデルにしていると考えられます。
しかし、亡き夫の前妻との子と結婚するなんて、あっていいのでしょうか。。。
神沼河耳命の活躍
これを伝え聞いた子供たちは驚いて、當藝志美美命を殺そうと考えました。
末っ子の神沼河耳命は、二番目の兄の神八井耳命に
「なあなあ。お兄さんが武器を取って、當藝志美美命(タギシミミ)を殺してくれよ。」
と申し上げました。
しかし、兄の神八井耳命は、いざ武器を手にして殺そうとした時、手足がわなないて殺すことができませんでした。
なので、弟の神沼河耳命が、兄の武器を受け取って、當藝志美美命を殺しました。
このことで、亦の名を建沼河耳命(タケヌナカハミミの命)と申し上げるのです。
兄の神八井耳命は、弟の建沼河耳命に皇位を譲ることにして言いました。
「私は敵を殺すことができなかったが、お前は敵を殺すことができた。
だから、私は兄だが上に立つことはできない。お前が天皇となって、天下をお治めてくれ。
俺は神職として、お前に仕えすることにしよう。」
原文
於是其御子聞知而驚、乃爲將殺當藝志美美之時、神沼河耳命、曰其兄神八井耳命「那泥此二字以音汝命、持兵入而、殺當藝志美美。」故、持兵入以將殺之時、手足和那那岐弖此五字以音不得殺。故爾其弟神沼河耳命、乞取其兄所持之兵、入、殺當藝志美美。故亦稱其御名、謂建沼河耳命。
爾神八井命、讓弟建沼河耳命曰「吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄不宜爲上、是以汝命爲上治天下、僕者扶汝命、爲忌人而仕奉也。」
簡単な解説
當藝志美美命
古事記では、神武が崩御して突然のように現れたタギシミミ命ですが、実は、神武東征にタギシミミも随伴していました。
ですから、神武の兄たちが東征の途中で死んでいったあと、一族の中で大和まで生き残ったのはタギシミミだけだったのです。
ですから、タギシミミとしては父の後継として、同じ苦労をした自分をおいてほかには無いと思った事でしょう。
しかし、自分は日向の比売の子。相手は皇后の子。母親の身分が違い過ぎます。このままでは到底天皇にはなれません。
だからこそ、皇后と結婚したのでしょう。となれば、タギシミミの気持ちは分からなくもないです。
では、皇后は?なぜタギシミミと結婚したのでしょうか?ここが理解に苦しむところです。
兄弟たちの系譜
現代語
長男である日子八井命は、
- 茨田連(まむたのむらじ)
- 手嶋連(てしまのむらじ)
の祖となりました。
次男の神八井耳命は、
- 意富臣(おほのおみ)
- 小子部連(ちひさこべのむらじ)
- 坂合部連(さかひべのむらじ)
- 火君(ひのきみ)
- 大分君(おほきたのきみ)
- 阿蘇君(あそのきみ)
- 筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)
- 雀部臣(さざきべのおみ)
- 雀部造(さざきべのみやつこ)
- 小長谷造(をはせのみやつこ)
- 都祁直(つけのあたひ)
- 伊余國造(いよのくにのみやつこ)
- 科野國造(しなののくにのみやつこ)
- 道奧石城國造(みちのしりのいはきのくにのみやつこ)
- 常道仲國造(ひたちのなかつくにのみやつこ)
- 長狹國造(ながさのくにのみやつこ)
- 伊勢船木直(いせのふなきのあたひ)
- 尾張丹羽臣(をはりのにはのおみ)
- 嶋田臣(しまだのおみ)
らの祖神です。
そして、三男の神沼河耳命は、天下を治めました。
原文
故、其日子八井命者、茨田連、手嶋連之祖。神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。神沼河耳命者、治天下也。
簡単な解説
特に、ございません。
神武の御陵、綏靖天皇の都と御陵
現代語
神武天皇は、137歳でお亡くなりになり、御陵(みささぎ)は畝火山の北の方白檮尾(かたかしのを)の上にあります。
綏靖天皇(神沼河耳命)は、葛城高岡宮(かづらきのたかをかのみや)に都を定めて、天下を治められました。
綏靖天皇(神沼河耳命)が、師木縣主(しこのあがたぬし)の祖の河俣毘賣(カハマタビメ)を娶って生まれた御子は、師木津日子玉手見命(シキツヒコタマテミの命)お一人で、次の天下を治めることになる皇子です。
綏靖天皇は45歳でお亡くなりになり、御陵は衝田岡(つきたのをか)にあります。
原文
凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。
神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱。天皇御年、肆拾伍歲。御陵在衝田岡也。
簡単な解説
方白檮尾(かたかしのを)
神武天皇の御陵についてははっきりせず、いくつかの候補地がありました。
一つは、畝傍山の北東の小さな円墳「福塚」です。しかし、現在では第2代綏靖天皇の陵に治定されています。
次に、畝傍山の北東の小さな塚「ミサンザイ塚」。実はこれが、現神武天皇陵に治定されています。現在の神武天皇陵です。
長らく最有力候補だったのが、畝傍山北東の麓にある小山「丸山」です。畝傍山と現神武陵の中間点に位置します。
3つとも畝傍山の北東にあり、しかも3つが斜めに並んでいるのです。
協議の結果、ミサンザイの塚を神武天皇陵としましたが、丸山説は今も根強く残っています。
その理由はいくつかあるのですが、
かつて丸山の周辺に洞村という集落があり、この集落の人々は神武とともに九州からやってた神武直系の家臣たちで、神武天皇陵の陵戸や守戸(墓守)をしていたという伝承が残っているからだとか。
葛城高岡宮(かづらきのたかをかのみや)
奈良県御所市森脇637。葛城山の麓です。葛城一言主神社の北350m地点に石碑があります。
景色のいい所ですよ。
衝田岡(つきたのをか)
2代綏靖天皇の陵ですから、前述の通りです。
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